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別子の山に蘇った緑
別子銅山の開坑後、約200年間は、図1-1の別子山中で製錬していました。当時の製錬工程は、まず採掘した鉱石を焼窯<やきがま>で30日間蒸し焼きにします。その後、火床に入れ炭を加え、ふいごで空気を送り鉱石を溶解させ、カワとカラミに分離します。“カワ”とは銅成分を含んだもの(硫化銅)で、“カラミ”とは銅をほとんど含まない残りのカスのことです。冷えて固まった“カワ”をはぎ取り、再び炉の中で加熱すると、鉄と硫黄が分離します。 図2には、この間吹<まぶき>の工程の様子が描かれています。左の人物は、ふいごを動かし炉に空気を送り込み、右の人物は、できあがった粗銅を炉からすくい出しています。こうしてできあがった銅品位80%の粗銅を、大阪へ運んでいました。図3は、明治初年の別子山中を描いたものです。現在でも、日浦から銅山越の登山道脇で、鋪方<しきかた>にあった歓喜坑<かんきこう>跡などの産業遺産を見ることができます。 銀が多く含まれている粗銅は、南蛮吹<なんばんぶき>により銅品位が約99.5%まで上がります。粗銅に含まれている銀は、加熱を繰り返しても銅から分離しにくい性質があります。そのため、粗銅を溶解した中に鉛を加え、鉛に銀を付着させて分離していました。これが有名な南蛮吹きです。
この時代、製錬所から出る亜硫酸ガスと燃料用の木材伐採により、別子の山はみるみるうちにハゲ山となり、荒涼とした風景が広がっていました(写真1)。明治27(1894)年、別子支配人に就任した伊庭貞剛<いばていごう>は、煙害で荒れ果てた別子の山を目にして、「このまま別子の山を荒蕪するにまかしておくことは、天地の大道に背くのである。どうかして濫伐のあとを償ひ、別子全山をあをあをとした姿にして、之を大自然にかへさねばならない」と、植林事業を開始しました。図4のグラフからも、明治後期からの植林本数が急増したことがわかります。この植林事業により別子の山には緑が蘇り、後に住友林業(株)が誕生することとなりました。
別子の山に蘇った緑| 海上の孤島 四阪島の挑戦| 世界トップクラスの製錬技術
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