日本で本格的な航空輸送が行われるようになったのは、戦後、それも昭和26年からです。日本は、昭和20年の太平洋戦争の終戦から昭和26年まで、占領国により航空機の運航や開発を行うことが許されていなかったからです。全国各地の空港は連合国による接収から少しずつ返還され、航空機の運航が行われるようになりました。戦後の航空輸送が始まって間もない昭和30年代、航空機を利用する人は、今と比べるとほんのわずかでした。
その頃、新居浜‐大阪間を結ぶ航空路が存在しました。昭和34年から40年のことで、新居浜市内にあった多喜浜塩田が操業を終了するのと同時に始まりました。12人乗りの小さな飛行機が、1日に多いときで2往復、営業所員もわずか6人というローカル線でした。その6人で、券の販売、旅客や荷物の受付、飛行機との通信、旅客を船で飛行機へ輸送するなど多くの業務をこなしていました。新居浜には飛行場がありませんので、水陸両用飛行機が、新居浜沖に位置する大島と黒島の間の海に着水していました。主に使われていた飛行機は、アメリカのグラマン社製水陸両用飛行艇マラードでした。マラードとは、マガモのことです。マラードの機首は、上部が水平で下部がぷっくりふくれていてマガモのくちばしのようにも見えます。マラードは、日本で5機使用されましたが、全て新居浜への航空路を運航していた日東航空が輸入しました。巡航速度は、260km/hと現在のプロペラ旅客機の半分程度であり、新幹線のぞみ号の最高速度300km/hよりも遅い速度です。それでも新居浜‐大阪間の所要時間は1時間ちょうどで、現在の旅客機が松山‐大阪間を飛ぶ55分(上り)または50分(下り)とほとんど同じです。 |