父・丹下辰世(ときよ)は旧制今治中学を出て住友銀行に入社した。大阪の堺支店に勤務中の大正2年に健三が生まれたが、辰世の転勤により、大正5年、一家は中国の武漢に引っ越し、その後、更に上海へ移った。
大正10年、健三小学校2年のとき、今治の綿織物業・興業舎の経営にあたっていた辰世の兄・辰世(健三の伯父)が病気で急逝し、辰世がその跡を継ぐこととなったため、一家は今治に戻った。健三の家には当時は学校にしかなかったオルガンがあり、とてもハイカラな家庭に見えたことを同級生は憶えている。
その後、健三は今治中学に入学し、通常は5年で卒業するところを成績優秀のため、飛び級により、4年生終了時の昭和4年に旧制広島高校へ進学し、今治を離れる。
父辰世は、昭和4年今治商業銀行の常務となり、実質的な責任者として経営にあたり、世界恐慌後の建て直しに成功した。 |
丹下辰世 |
また、辰世は今治商工会の副会長や評議員も務めてた。『今治商工会35年史』(1940:鈴木治平編集,今治商工会発行)
辰世の兄、辰雄の墓は、今治市山方町の観音寺にある。『越智郡々勢誌』(1916:渡辺幸四郎編集,御大典記念越智郡々勢誌発行所)によると、辰雄は慶応3年、今治藩士の家に生まれ、明治32年から興業舎専務取締役として働き、更に今治商業銀行常務取締役になったほか、伊豫綿練同業組合副組長、今治税務署所得税・営業税調査委員、今治商工会議所評議委員、今治町会議員などの要職を務めた。 |
丹下辰雄 |
丹下辰雄墓 |
辰世と辰雄が関わった興業舎とは、明治後半から大正にかけて越智郡・今治地区において、分工場45社を数え、従業員数も、1200名という四国地区屈指の規模を誇った綿織物業者であると『柳瀬義富と興業舎』(1995:阿部克行,今治史談会発行)に書かれている。現在、世界で最も多く小型電球を作っている工場が今治のハリソン東芝ライティング株式会社であるが、この工場は興業舎第二工場の跡地に建てられており、興業舎の頃からの建物が一棟残っている。 |
興業舎第二工場跡(現ハリソン東芝ライティング株式会社)
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