研究ノート


 二階付き電車が松山にあった
藤本雅之 

 暑かった夏、みなさんは海に出かけたでしょうか?今も昔も暑いときは海水浴。大正時代の松山の人も海水浴に行っていたようです。今から90年くらい前の明治44年から大正10年まで、松山電気軌道という会社があり、江ノ口(現在の松山市住吉)から道後まで電車を走らせていました。この会社の新聞広告は面白く、『石鹸を買うと電車の往復乗車券進呈』とか、『沿線に四国唯一の動物園あり』と書いてあります。そして、『三津ヶ浜海水浴場』の文字があり、当時の人々が海水浴に行っていたことが分かります。さらに、その説明に『二階付電車納涼台あり』と書いてあります。一体何のことなんでしょう?



 大正2年、松山電気軌道は、大阪市電から2両の二階付電車を購入しました。大阪市電に在籍した頃は、珍しがられ、名士が来阪したときに乗ってもらったそうです。この電車は、大正13年以降、大阪府の能勢電気軌道(現在の能勢電鉄)に移りました。その後、台車だけが兵庫県の宝塚ファミリーランドに展示されていましたが、現在は、大阪市交通局の緑木車庫に保存されています。この台車は、1901(明治34)年に、日本では珍しいヘルブランド社(ドイツ)で作られ、G.E.社(アメリカ)製のモーターが付いています。残念ながら、いつも公開されているわけではありません。

  さて、この二階付電車ですが、いくつか謎があります。大阪から来た二階付電車は、統計では2両とも貨車として記録されました。せっかく、珍しい二階付電車を購入したのに、貨車として記録されたのはなぜでしょう?また、貨車で記録されているのに、三津ヶ浜海水浴場では、『二階付電車納涼台』として使用されています。地図をご覧ください。大正時代初期の三津浜の地図ですが、松山電気軌道の終点江ノ口と海水浴場との間は約300m離れています。納涼台として使うために、線路のないところを運んで行ったのでしょうか?

 謎はいろいろと深まるばかりですが、松山電気軌道が大阪から二階付き電車を買ってきたことは事実のようです。松山の市民が電気を使い始めたのは、明治35年なので、11年ほど後のことです。そんな新しい技術を使った車両の上で夕涼みをする松山の子供たちを想像すると、楽しい気分になってきます。もし、松山でのこの車両の写真をお持ちの方が居られれば、ぜひ一度見せていただきたいと思います。


松山電気軌道で使用されていた台車
(平成17年3月13日撮影)

大正時代初期の三津浜
「三津浜町図」(松山市立三津浜図書館所蔵「御津の歴史移り変わり」に収録)を元に作成。

〈参考文献〉
和久田康雄(1963):失われた鉄道・軌道を訪ねて〔12〕松山電気軌道.鉄道ピクトリアル,149号pp.56-60
伊予鉄道株式会社(1936):五十年史.高岡慎吉.伊予鉄道株式会社,愛媛県.402pp
吉川文夫(2003):路面電車の技術と歩み.グランプリ出版,東京都.76pp

ふじもと・まさゆき /主任学芸員・産業担当

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