特集

館長 菊池健

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理論から実験へ
 一連の論文を発表して実績が出来たところで、職を得ようといくつかの大学−大阪大、基研、大阪市大、立教大など−の助手に応募しましたが、いずれも不採択でした。その時、新設の東京大学原子核研究所(核研)の公募がありました。理論、実験両方に応募したのですが、理論の方は採用人数が少なく、実験で採用され、サイクロトロン()の建設に従事することになりました(昭和31年)。同じとき、理論の助手になった一人が前館長の有馬さん()でした。サイクロトロンは32年クリスマス前夜に完成し(最初の陽子ビームが回った)、翌年早々から実験を始めました。世界で初めて陽子エネルギーを変えられるサイクロトロンでしたので、その特長を活かして様々な新しいデータを発表しました。私たちのグループのデータは物理学ハンドブックに掲載されましたので、おかげで小生の名前は理論と実験の両方で引用されました。
 実験に専念していた33年春、ミネソタ大学から招聘状がきました。菊池正士所長()に相談したところ、若いうちに外国に行けと激励され、半分期待、半分不安で行くことになりました。当時は、ビザを取るにも米国大使館で宣誓することが義務でした。円をドルに換える許可がとれずアメリカでの給料1ヶ月分750ドルを前借して家内と私の船賃にしました。8月末、ブラジル航路の移民船サントス丸で横浜を発って2週間後、シアトルに着き、40時間列車に乗ってミネアポリスに着きました。1ドルが360円の時代でアメリカでの月額給与が日本での年俸23万円より多かったのです。また、太平洋片道の航空賃は27万円で、勿論直行便はなく、ウエーキ、ハワイなどで給油しましたので、西海岸まで24時間かかりました。

原子核から素粒子へ
 アメリカでは再び原子核理論の仕事を続けながら、大学院で講義を担当していましたが、そのノートが関係者の目にとまり、後にノース・ホランドから河合君と共著で単行本として出版しました。滞米が終わりに近付いた頃、早川先生から手紙が来て、名古屋大学で理論・実験にこだわらない新しい研究室をつくるから、助教授として来ないかとのことでした。35年9月に帰国、36年春、名古屋大学に赴任しました。ここで、完成が迫っていた原子核研究所の電子シンクロトロン()を使った素粒子の実験を計画することになりました。エネルギーは世界の一線よりはるかに低い加速器()ですが、曲りなりにも日本で初めての高エネルギー加速器でした。この電子シンクロトロンを使う実験には、核研、東北大、東大、京大、名古屋大、広島大などが参加しました。日本における高エネルギー物理の夜明けでした。

新研究所の設立と研究支援
高エネルギー物理学研究所
高エネルギー物理学研究所(現・高エネルギー加速器研究機構)写真提供:高エネルギー加速器研究機構
 核研電子シンクロトロンで日本の高エネルギー実験の幕が開いたのですが、世界の第一線からははるかに遅れていました。世界に追いつくためには、さらに大規模の本格的加速器の建設が必要でした。昭和30年代、高エネルギーの研究者はまだ一握りでしたが、次期加速器計画を擁する新研究所の建設を学術会議に提案し、紆余曲折の結果、学術会議から政府への勧告になりました。この勧告を受け、文部省は昭和39年から、核研に準備予算を措置しましたが、新加速器の建設に要する予算は約300億であり、当時の文部省予算の枠では支出不可能でした。そのため、新研究所(最初、素粒子研究所−素研−と呼ばれた)は容易に実現せず、折からの大学紛争とも関連して、高エネルギー研究者と他分野の研究者との対立を生み、泥沼の数年間でした。私は電子シンクロトロンの実験を行うかたわら、38年頃から素研の準備に協力し、昭和42年からは、核研を併任して、毎週火曜日から金曜日までは準備に従事しました。結局、規模を縮小して昭和46年、高エネルギー物理学研究所(写真)がスタートしたのですが、以後、加速器建設を手始めに、自分自身の研究は棄てて、研究管理に専念してきました。この研究所は全国研究者の共同施設であり、利用研究者数は2000人を超え、外国からの研究者の滞在も年間14000人日に達しています。日本では研究業績が極めて重要視されますが、最先端の研究では研究支援、研究管理が不可欠だと思います。停年後、日本学術振興会で研究支援に従事できたのも幸いでした。

次世代の若手に伝えたいもの
館長のおもしろ科学講座
平成11年度「館長のおもしろ科学講座」

 戦後日本の教育は落ちこぼれを防ぐことに重点が置かれ、個性や独創性を伸ばすことをおろそかにしてきました。知的独創性の出発点は子供の好奇心です。子供たちに必要なことは、有用な多くの事象や現象に接することであり、その中で自分たちが熱中できる物を見つけることです。その点で、博物館では学校教育で提供出来ない多くの題材を見つけることが可能です。昔の子供は自然観察、読書、工作、スポーツなどで自由時間をすごしました。現在の子供たちには、テレビやコンピューターなど多くの魅力ある対象がありますが、それがすべてになっている心配があります。子供たちが博物館に来ることで、それぞれの新しい発見が出来ればと思います。その中で他人と違った見方や考え方が生まれれば、素晴らしい独創への芽となるでしょう。
 最近はITが珍重されています。ITは高度の技術を可能にし、経済を活性化する効果はありますが、人類が抱えているエネルギー問題や食糧問題を解決しません。大切なことは、物つくりです。20世紀、日本人は古来得意とする物つくりで近代国家を築いてきました。21世紀においても、物つくりは人類にとって必要です。最近は日本の製造産業の空洞化が懸念されていますが、われわれは更に高度の技術を使った産業で、この空洞を埋めるべきです。これらは、一口にハイテクと言われていますが、その範囲はミクロの世界から、地球規模の諸問題に関連しています。学問的には、理工学、生命科学、社会科学などに亘る広範な分野を含んでいます。博物館でサイエンスショーや実験を体験すること、最新の科学や技術に触れることなどは、小さいインパクトであっても子供たちのメンタリティを育て、社会が要求する多彩な人材の育成につながればと願っております。

(菊池 健:平成11年6月、当館第2代館長に就任)

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