特集

館長 菊池健

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戦時下の小中学校時代
 生まれたのは松山市此花町。小学校に入学した翌年(昭和12年)、日中戦争が始まったので、私の小中学校時代の殆どは戦時下にあったわけです。
 第2次世界大戦が始まった翌年、松山中学(現在の松山東高)に入学しましたが、入学直後、放火によって本館、体育館などが焼失し、以後卒業までまともな校舎で授業を受けることはありませんでした。
 旧制中学では、物理、化学、生物それぞれ週2時間の授業でしたが、植物採集や蛙の解剖など生物は気乗りがしませんでした。化学も特に嫌いではなかったのですが、暗記することが多く好きにはなれませんでした。
 20年3月、3年生の終わりから新居浜住友機械に勤労動員されました。そのときに、たった1冊持って行ったのが、物理の参考書でした。新居浜に来た直後、土佐沖の空母から発進した米国艦載機の機銃掃射にあい、山中に逃げ込んだこともありました。松山中学と新田中学は詠帰寮に入っていましたが、この寮の跡地には現在住友重機の研修所があります。毎日、寮から工場に通う途中で、星越の精錬場へ向かうオランダの捕虜の隊列とすれ違いました。現在のインドネシアは当時オランダ領で日本軍が占領していたのです。戦争の激化とともに食糧は貧しくなり、一日の食糧が弁当箱一杯の大豆ということもありました。日ごとに本土空襲も激しくなり、松山も7月26日焦土と化しました。日本国民の戦意も日ごとに低下し、8月15日敗戦を迎えたわけです。
 9月から、焼残った松山商業の校舎の一部を借りて授業が再開され、海軍兵学校や陸軍幼年学校から復学した連中が帰ってきました。翌年は旧制松山高校を受験して失敗(当時は中学4年終了でも受験できた)、再起を期して猛勉強を開始しました。バラック小屋に家族7人が住んでいる環境は勉強には向いてなかったのですが、空白の中学時代を取り戻すべく、学校から帰ってから、毎日12時間びっしりと机に向かいました。おかげで、出題の運にも恵まれ、翌年22年、松山高校に首席で合格し、やれば出来るとの自信が沸いてきました。

物理を志望
 高校に入ったものの、校舎は一部しか復旧しておらず1学期は枝松町にあった倉庫で授業をうけました。高校の同期には、松山医師会の重鎮がたくさんいますが、後にネパールで医療活動した岩村氏()も同級でした。高校では物理、化学などの授業はかなり専門的になりましたが、化学では定比例の法則や倍数比例の法則が公理的に与えられるので、ますます興味が薄らぎました。特に、3年生の有機化学の授業で構造式を暗記するのが鬱陶しくなって、卒業試験では化学のテストを受けませんでした。物理は好きだったようで、みんながサボっていた実験を独りでやっていました。そんなことで、物理学科を志望することにし、受験教科にドイツ語がなく、化学のウエイトが小さかった大阪大学理学部物理学科を受けることにしました。加えて、当時、大阪大学には理論・実験ともに優れた教授陣が揃っていたこと、郷里松山から近距離にあることも魅力でした。

原子核理論の道へ

 大学3年を迎えて、研究室を選ぶことになり、原子核の理論を勉強と思い、伏見()研究室に入りました。そこで内山助教授()の下、素粒子論を勉強しました。自分としては、もっと現象論的な勉強もしたかったので、伏見教授を通して大阪市大南部研究室でセミナーをして欲しいと申しいれました。市大には、南部教授()の下、早川助教授()山口講師()西島()中野助手()ら錚々たるメンバーが顔を揃えていて、古今東西物理の歴史で最強の理論グループを形成していました。南部研は快く応じてくれ、週2回セミナーを受けることになり、おかげで、基礎理論、現象論の両方の勉強が出来て、不十分ながら、二つの卒論をかくことが出来ました。大学院に入ってからは、大阪大学に籍をおきながら、京都大学基礎物理学研究所(基研)の初代教授に就任した早川先生に師事して専ら原子核の理論の仕事を続けました。旧制の大学院は現在とは異なり、5年間で学位論文を仕上げるようなシステムでなく、学位は相応しい論文が出来たときに申請して授与されるシステム(今の論文博士)でした。大学院に在籍することはそれ程重要ではなく、職があればいつでも退学するのが通例でした。大学院1年の夏(1953年)、日本で初めての理論物理学国際会議が、基研で開催されました。会議に提出するために、京大の先生について重陽子の反応に関する論文をまとめました。翌年には、基研の研究会で知りあった東大生産研(生産技術研究所)の河合氏と共同して原子核の光学模型について論文をまとめましたが、この仕事はドイツのシュプリンガーが出版している物理学ハンドブックに掲載されました。

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